東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流:メディアを中心に | 輕鬆瘦下來的秘訣 - 2024年11月

東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流:メディアを中心に

作者:梁蘊嫻
出版社:國立臺灣大學中心
出版日期:2016年09月16日
ISBN:9789863501763
語言:繁體中文
售價:684元

以台灣、日本及整個東亞的文化交流與傳播為軸心,
從「文學」、「思想」、「語言」,探討媒體所帶來的文化重建現象。
打破既有的學系分類,提供跨領域的討論空間。

  現今全球化急速發展,世界各國文學、思想、言語等之共通性日益顯見,此為媒體發達所致。提到「媒體」,一般的認知多為報紙、雜誌、電視、廣播等近現代以降所發明的產物,本書所探討之「媒體」,欲以更廣泛的觀點來解釋。不僅是指現代的科技產物,亦包括近現代以前文化傳播之媒介、方法、手段。隨著時代的演變,「媒體」的型態也有所不同。因各式各樣媒體的出現,產生了新的跨國界文化。媒體的發達,造就了文化國境日漸消失,亦即文化全球化之現象。

  本書以台灣、日本及整個東亞的文化交流與傳播為軸心,審視傳播文化的媒體之演變與文化傳承方式的關係,探討異文化如何透過媒體,相互影響,進而產生新的文化。在本書中,以「文學」、「思想」、「語言」之三種範疇,探討媒體所帶來的文化重建現象。希冀以「媒體」為主題、打破以往既有的學術框架(亦即是大學裡的學系分類),提供一個跨領域的討論空間是本書最大之目的。

  グローバル化が急速に進む今日、世界の文学、思想、言語などをつないでいるのは、多様なメディアである。メディアは、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどの近現代以降できあがった媒体として捉えられることが多いが、本書ではより広義的な意味を取っている。多様なメディアの出現と蓄積により新しいトランスナショナルな文化・知識が生成している。メディアの発展が進むことで、文化の国境は消えつつあるといえよう。

  本書は、台湾・日本を含めた東アジアにおける文化交流・伝播の様態に迫り、異文化がどのようにメディアを通じて、どのように影響し合い、そしてどのような新しい文化が形成されるかを考えるものである。ここでは「文学」「思想」「言語」という三つの視点から、メディアによる文化の再形成について検討しているが、「メディア」を取り入れることによって、既存の学問領域、すなわち大学の学科に分類されるような枠を超えて、横断的に議論する場を作るというのが、本書の目的である。

編者簡介

梁蘊嫻

  東京大學大學院總和文化研究科博士。專攻比較文學比較文化、日本江戶文學、圖像學。博士論文題目為: 「『江戸文学における『三国志演義』の受容』―「義」の概念と挿絵の世界を中心に―」。曾任交通大學人文社會與科學研究中心博士後研究員,目前為元智大學應用外語系助理教授。代表著作有:「『諸葛孔明鼎軍談』における『三国志演義』の受容とその変容―「義」から「忠義」へ―」(『比較文学研究』83 号、2004 年3 月 )、「模倣と創造―『絵本三国志』における『三国志演義』遺香堂本の受容―合戦場面を中心に―」(『日中芸術研究第38号』、2012年12月)、「江戸の『絵本三国志』は明の『三国志演義』呉観明本・周曰校本をどう受容したか―人物描写からみるその実相―」(瀧本弘之・大塚秀高編『中国古典文学と挿画文化』、アジア遊学、東京・勉誠出版、2014年2月)、「村上春樹『ノルウェイの森』論―死生観とセックス描写とのかかわり―」(『比較文学・文化論集』第33号、2016年3月)等。

梁 蘊嫻(リョウ ウンカン)

  台湾生まれ。東京大学大学院総合文化研究科学術博士。現在、元智大学応用外国語学科助理教授。専門は比較文学比較文化。著作に、『諸葛孔明鼎軍談』における『三国志演義』の受容とその変容―「義」から「忠義」へ―」(『比較文学研究』83 号、2004 年3 月 )、「江戸の『絵本三国志』は明の『三国志演義』呉観明本・周曰校本をどう受容したか―人物描写からみるその実相―」(瀧本弘之・大塚秀高編『中国古典文学と挿画文化』、アジア遊学、東京・勉誠出版、2014年2月28日)、「村上春樹『ノルウェイの森』論―死生観とセックス描写とのかかわり―」(『比較文学・文化論集』第33号、2016年3月)、などがある。

序章 東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流―メディアを中心に―(梁蘊嫻)

【文学とメディア】
第一章 「男はつらいよ」を江戸から見れば―第五作「望郷篇」の創作技法―(延広真治)
第二章 トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』と村上春樹『ノルウェイの森』の比較研究―映画と文学のはざま― (梁蘊嫻)
第三章 文学におけるトランスナショナル的な痕跡―川端康成「古都」から朱天心〈古都〉―(石川隆男)

【思想とメディア】
第四章 輿論と世論の複眼的思考―東アジアの理性的対話にむけて―(佐藤卓己)
第五章 なぜ傷ついた日本人は北へ向かうのか?―メディアが形成した東北日本のイメージと東日本大震災―(山本陽史)
第六章 発信する朝鮮の舞姫の舞踊写真、越境する日本帝国文化―戦前の対外宣伝誌『NIPPON』掲載の崔承喜写真を中心に―(李賢晙)
第七章 歌われた理想的な銃後の女性像 ―〈軍歌〉を 媒介として―(廖秀娟)
第八章 台湾で戦後上映された映画―1945(民国34)年~1949(民国38)年―(川瀬健一)

【語学とメディア】
第九章 電子メディアの漢字と東アジアの文字生活(横山詔一)
第十章 漢字メディアと日本語学習(林立萍)
第十一章 「異文化コミュニケーション・ストラテジー」授業の運営について―評価を通しての多角的な視点の育成―( 林淑璋等)

序章(節錄)
 
  本書は、2014年6月13日、14日に開催された第4回日台アジア未来フォーラム「東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流―文学・思想・言語―」(渥美奨学財団、台湾大学、元智大学共同主催)で発表された論文を厳選し、収録したものである。
 
  フォーラム企画当初を振り返ってみると、私はフォーラムの責任者としての経験がなかったため、どこから始めればよいかすらわからなかったが、準備会議で台湾大学の先生方からいろいろアドバイスをいただいたおかげで、徐々に形を整えることができた。フォーラムの主題「メディア」は、台湾大学の辻本雅史先生のお薦めによるものであり、「メディア」を取り入れることによって、既存の学問領域、すなわち大学の学科に分類されるような枠を超えて、横断的に議論する場を作るというのが、フォーラムの目的であった。
 
  メディアが情報伝達、思想形成、文学表現、言語発展に深く関わっているため、文化(文学・思想・言語)の交流はメディアを抜きには語れなくなっている。メディアは新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどの近現代以降できあがった媒体として捉えられることが多いが、ここではより広義の意味を取りたい。たとえば、映画、写真、歌や音楽、インターネットなどもメディアの一種と言える。メディアの内容は時代によって異なる。近現代までは、メディアの主流は文字出版であったが、近現代になってから、映画というメディアの出現によって、文字を映像化することが可能になった。映像の発明は、文学の映画化を促進し、人々と文学との間の垣根を低くした。映画は、商業ベースで普及するため、小説以上に民衆に浸透しやすいからである。また、毎年国際映画祭が開催されていることからも明らかなように、映画は次第に外国人にも理解されるように製作されることが多くなってきた。映画やドラマだけではなく、写真、歌や音楽などのメディアも文化を伝達するのに大変効率的な道具である。また、現代のインターネットメディアの出現により、世界のどこにいても、誰でもインターネットによって知識伝達の受益者となり、他方で誰でもブログなどで自分の言論を簡単に発表したりすることもできる。そして、ネットの発達は、言語学習にも大きな変革をもたらしている。インターネットの発達によってもたらされている現象は実に興味深い。多様なメディアの出現と蓄積により新しいトランスナショナルな文化・知識が生成しようとしている。メディアの発展が進むことで、文化の国境は消えつつあるといえよう。本書は「文学」「思想」「言語」という三つの視点から、メディアによる文化の再形成について検討するものである。
 
  二、文学とメディア
 
  第一部には、三本の論文が収録されているが、いずれも、文学が異なったメディアを通じて、どのように広がっていき、そして生き続けるのかというテーマを扱っている。
 
  「『男はつらいよ』を江戸から見れば―第五作『望郷篇』の創作技法―」(延広真治氏・東京大学名誉教授)は、古典的名著がどのようにドラマに取り入れられるか、という問題を考えた論文である。山田洋次監督の「男はつらいよ」は連作四十八に及ぶ喜劇で、世界最長の映画シリーズとしてギネスブックに登録された。四十八作中、観客が最もよく笑うと思われたのが第五作だと監督は述べているが、延広先生は、この「望郷篇」の創作技法は江戸時代の作品に求めることができると指摘した。具体的には、江戸時代とかかわりの深い作品、たとえば落語「甲府い」・「近日息子」(原話:手まハし)・「粗忽長屋」(袈裟切にあぶなひ事)・「湯屋番」・「半分垢」(原話:駿河の客)、講談「田宮坊太郎」や曲亭馬琴『南総里見八犬伝』などを綿密に考察し、それらの作品と「望郷篇」の関係について詳しく論じている。延広先生の論文から、日本人にとっての国民的映画「男はつらいよ」のユーモアは、監督の古典作品に対する造詣の深さによるものであることが、よくわかる。笑いは日本文化の中においては、非常に特徴的で大切なものである。落語の笑いは馬鹿馬鹿しくて、理屈がいらない。「男はつらいよ」が長く続けられたのは、落語的なユーモアセンスが染み付いているからだといえる。また、逆に日本人の笑いに対する感覚は、「男はつらいよ」というドラマを通じて、継承されて行くのだとも考えられる。まさに、古典的名著はメディアを通して、現代を生き続けられるのだと言えるだろう。
 
  続いて、「トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』と村上春樹『ノルウェイの森』の比較研究―映画と文学のはざま―」(梁蘊嫻・元智大学助理教授)は、小説と映画との交流を取り上げた論文である。近年、映画監督が他国の文学作品を撮る例が増えてきた。村上春樹の代表作『ノルウェイの森』(1987年刊)が2010年にベトナム出身のトラン・アン・ユン(Trần Anh Hùng、陳英雄、1962年)監督によって映画化されたのも、一つの具体例である。「映画」は、異国間の文化交流のあり方を変えたといえよう。トラン・アン・ユンは村上春樹の読者として、彼の作品を一方的に受け入れるのではなく、受け入れたものを映画というメディアによって、再創作している。村上春樹『ノルウェイの森』は亡くなった親友の恋人との関係を通し、主人公の青年の愛と性、生と死を叙情的につづったものである。これに対して、映画では性愛のシーンに焦点を当てて、ラブストーリーとして仕立てられている。官能的な場面が強調されているのは、視覚的な効果を重視する映画の特質から生じたものと考えられる。映画は、映像、音楽、俳優、脚本など、さまざまな要素を含む総合的な芸術である。本研究では、文学が映画という媒体を得たことで、表現の仕方や伝え方、及びその効果も新たな展開を見せたことを論じる一方、映像が及ばない文字の力の強さも改めて確認することができた。
 
  次に、「文学作品におけるトランスナショナル的な痕跡―川端康成「古都」から朱天心〈古都〉へ―」(石川隆男氏・台湾大学非常勤講師)が収録されている。川端康成の「古都」は京都を舞台に双子の姉妹の運命が描かれ、一方の朱天心の〈古都〉は台北の町を舞台に記憶を喪失する台湾の運命が描写されている。石川氏は、〈古都〉に対する従来の日本の美や伝統を主体とする読みや当時の台湾の社会状況に見られた民族間闘争に主眼を置く読み解きから離れ、〈古都〉に「間テキスト」としての「古都」が底流としてしっかりと流れている点に着目し、二つのテキストのトランスナショナルの痕跡を探った。分析の結果、浮かび上がってきたのは、川端文学と朱天心文学の35年という時間のトランスナショナルではなく、さらに溯って平安時代末期までの通時的な繋がりまでが見えてきた。本論文では「古都」と〈古都〉の創作背景や思想の形成、またテキストの構成などの分析を通して、「トランスナショナル」文学の一好例を示しているのである。
 
  以上、収録した三本の論文がそれぞれ示しているのは、(1)現代を生きる古典、(2)外国人による日本文学の再創作、(3)外国文学から見出される日本との共通の記憶、というメディアの発達がもたらしたトランスナショナルな文化の典型である。この第一部で画期的なのは、視覚を重要視するメディア(たとえばドラマや映画)と、伝統的な文字媒体との比較を行い、それぞれの特色や限界を論じたことである。同じ作品を異なったメディアで表現すると、どのように変わるかというのは興味深い問題である。この試みをきっかけに、異なったメディアの相互関係に関する研究がますます盛んになることを期待している。


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